「コミュニケーション」 と「自己表現」の違い

2019年5月に行われた、クリスティン・プライスによる「GAP連続コース」でのWEB講義内容からの抜粋です。


「コミュニケーション」 と「自己表現」の違い

「自己表現」と「コミュニケーション」というのは別のものです
実はゲシュタルト・アウェアネス・プラクティス(以下 GAP)では「自己表現」を扱うことが多く、オープンシート()もその機会のうちのひとつです。

自己表現」という時には、相手の人がそれをどう受け取るかということは、こちらは心配していません
特にGAPで行うワークのように、表現する対象が(実際の相手ではなく)座布団・ピローであれば、全く気にする必要はありません。オープンシートでやっていることの価値は、相手に対して注意深くする必要がないということであり、だから誰も傷つかないし、複雑になることもなく、色んな実験ができるのです。
また、その実験では、今感じていることが、本当に今起きていることなのか、もしくは過去のことなのか、もしくは今起きていることに色々くっつけて混乱させているのか・・ということも見ることができます。オープンシート では「混乱をそのまま出す」というスペースがあり、それにより起きていることを明確にすることができます。

でも日常生活では、私たちは「コミュニケーション」をしたい。その場合は、ただ自分が言いたいことをそのまま出すのではなくて、相手のことをまず考えて、相手が自分のことを聴くことができるようにお手伝いをするということがあります。

私が「コミュニケーション」と言う時には、キャッチボールに例えることができます。私たちはただボールをやみくもに投げたいのではなくて、相手が受け取りやすいボールを投げたいのです。もちろん、オープンシートではただボールを投げることもできます(笑)強く投げたり、下から投げたり・・色々な投げ方を試すことができるのです。

でも現実の人との関係、つまり「コミュニケーション」では、「あなた」という存在を考える必要があり、私たちは「あなた」とある種の繋がりやコンタクト、理解を求めています。必ずしも「同意」はしないかもしれないが、少なくとも「理解」することはできるということです。ここで少し考えてみてください。「理解する」ということと、「同意する」ことの違いは何でしょうか?

※オープンシート とは、グループメンバーが順番にクリスによるサポートを受けながら、一瞬一瞬自分に起きる気づきやプロセスに触れていくワークです。

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コミュニケーションによって受ける影響

本当のコミュニケーションでは、「意図」「影響」という考えを扱うことができます。

まず私たちがコミュニケーションについての問題を抱えている時は、大体相手への「影響」を心配している時です。

コミュニケーションで自分が伝える側のとき、まずやるべき最初のステップは、「私は今、何を相手に言いたいのか?伝えたいのか?」を考えることです。
そして2番目のステップとしては、「もし私これが言ったら、あなたはどうなるのか?」ということです。

ここで皆さんにちょっと考えてほしいのが、「自分が言いたいことを言わない時、なぜそれを言わないのか?何がそれを止めているのか?」ということです。
言いたいけれども言わない時というのは、ほとんどの場合、相手のことを考えています。相手がどう感じるかわからない、相手がどう反応するかわからない時が多いです。これはさっきのキャッチボールの例でいうと、ボールを投げる側の時に考えることです。

では、次に私が受け手の時、誰かが私に何かを伝えて、それを受け取った時に何かを体験したり、影響がおきた場合についてです。
その時に、私たちはどれくらい相手に「私は今これを聞きました、そしてこう体験しました。こう感じました」ということを伝えているでしょうか?時には言葉だけではなく、行動で示していることもあるかもしれません。「あなたがそれを言うと、私はこういう風になります」と、どれくらい伝えているでしょうか?

このようにコミュニケーションをする時には、投げる側と受け取る側でそれぞれ影響を受ける場合があり、そのやり取りに難しさを感じることが多いのです。

特に相手への影響や衝撃を考えて自分を押さえる場合や、自分が受け取る時に感じた衝撃を相手に言うこと、それによって相手に影響を与えるのが怖い、という場合があります。

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それぞれの責任、応える力「Resonse-ability」

ゲシュタルトでは「Responsibility 責任」というのがキーワードになっています。これは分解すると「Response-ability」つまり「応えることができる力」ということなのですが、それをコミュニケーションの両方の側に求めています。

コミュニケーションの両方にこの責任があるということは、伝える時には自分が何を言いたいのかについて、そしてそれを受け取った側には、自分がどのように感じるかということに責任があるということです。

特にコミュニケーションを投げる側としては、「自分が言ったこと・やったことの影響を知る」という興味・関心があります。

そしてコミュニケーションを受け取る側の責任としては、「投げた方の意図を知る・聴く」という責任があります。特に自分が受け取ったときに何か大きな衝撃があった場合は、何らかの方法で相手にその影響を伝えて、相手の意図を尋ねる、という責任があります。

これはグループの中の原則ですが、
「それを言ったあなたにしか、その意図はわからない。
 そしてその影響は、私しか知らない」 と言えます。これを言い換えると、

「それを言った私にしか、その意図はわからない。
 そしてその影響は、あなたにしかわからない」ということです。

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「私はあなたに影響を与えるし、あなたも私に影響を与える」

それぞれがそれぞれの人生の歴史や違いを持っていて、誰も完璧ではありません。
とすると、自分がどう在るか、何を言った、やったかが、相手に困難や影響を与えることは多々あります。逆に言うと、誰かが私にコミュニケートしてきた時、自分が何らかの影響や衝撃を受けて、それに困難を感じる場合もあります。それは、必ず起きる事実なのです。

もし、それが起きないように回避する生き方をすると、すごく狭まった、制限のある生き方になります。そうではなく、こういうことが起きた時にどうすればいいか知っておく、ということが、より自由な生き方になります。

お互いに「私はあなたに影響を与えるし、あなたも私に影響を与える」という事実に対して、どちらの側でもできることがいくつかあります。時には起きる影響が嬉しくない場合もあり、困難や、混乱、傷ついたと感じる時もあります。

でもそれが起きた時、「それはいったい誰の責任なのか?」について、自分がどのような思い込みや信念を持っているかによって、違いが生まれます。

例えば相手の傷つきやすさや敏感さをすべて知って、相手が傷つかないように私の全てのコミュニケーションのやり方を変えるのが、私の責任なのでしょうか?

もしくはあらゆるコミュニケーションをうまく受け取れるようにして、誰に何を言われても大丈夫、という状態でいるのが相手の責任なのでしょうか?

もしくは自分が受け手として、周りのすべての人が、私にどういう影響を与えるかを知っていることを期待し、それが当たり前だと思うのでしょうか?

自分がコミュニケートする側、発信者として、相手にどんな影響を与えるかまで分かっていることを、自分に期待していますか?また自分が発信側として、受け手としての相手に、何を期待しているのでしょうか?

自分がコミュニケーションをする側として、自分や相手に、何を期待するでしょうか?

目の前に座布団やクッションを置いてみて、コミュニケーションをする相手がそこにいるとしてみてください。そして、下記の文章の空白を埋めてみてください。

「私があなたとコミュニケーションする時、
私は自分に・・・・・・を期待しています」

「私があなたとコミュニケーションする時、
私はあなたに・・・・・を期待しています」

「期待」をもう少し違う言葉でいうと、
「~だろうと思っている」「推測している」「前提だと思っている」とも言えます。

ー クリスティン・プライス(2019.5.25 連続コース 「GAPとコミュニケーション」より)

(続く)

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